生命大躍進展@国立科学博物館
今、上野の国立科学博物館で「生命大躍進」展やってます。
NHKスペシャルのタイアップ企画でして、人間ができるまでの進化上の大きなトピックスを追ういい番組でしたが、科博の見どころは兎に角、バージェス頁岩。レプリカでなく、生のバージェス頁岩。5億年以上も前の生き物を生で見れるなんて感動ですよ。
展示は時代順に並んでるので、最初は先カンブリア時代から。
生命初期の微生物の痕跡、ストロマトライト。凄いんだが…肉目で見ただけじゃ石だ。
エディアカラ生物群もいくらか来てた。写真はディッキンソニアの群れ。でも、軟組織しかなかった彼らの化石は、実態の残ってない印象化石なのでちょっと盛り上がらない。
そしてようやくカンブリア紀、お目当てのバージェス頁岩!
まずはピカイア、脊索にたどり着いた最古の生物。脊索、それは人間に至る唯一解。ほんの数cmと知識で知ってはいたが、実物見ると如何にも小さい。こんなん、ほんまに脊索あるってわかるんか。
おつぎはウィワクシア。ウロコ+トゲの奇態、本で見たまんまだー。構造色を放っていたというが、さすがに今は片鱗も見えない。
ハルキゲニア。最初思ったのと上下も前後も違った変ないきもの筆頭のハルキさん。ちっさすぎて変さがわかりにくいよ、ハルキさん。
オパビニア。5つの目に飛び出たノズル(口じゃない)。ノズル、くっきり見える!
アノマロカリス、満を持して登場。真ん中のは「エディアカラ紀・カンブリア紀の生物」のジャケットに使われてたやつだね!ワーオ!!
エディアカラ紀・カンブリア紀の生物 (生物ミステリー (生物ミステリープロ))
- 作者: 土屋健,群馬県立自然史博物館
- 出版社/メーカー: 技術評論社
- 発売日: 2013/11/12
- メディア: 単行本
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口だけ化石も。これじゃ不細工です代のキスマークだ。
主役だから復元模型もアルヨ!
ぬいぐるみもアルヨ!(買っちゃったヨ!)
チェンジャン産のもいっぱい来てました。
バージェス以降の見どころは、ダイジェストにて。
ウミサソリ。史上最大級の節足動物。人間よりでかいサソリとかひくわー
ダンクルオステウスに喰われそうなウミサソリの模型。ダンクル、でかすぎ。
ジュラマイア。胎盤をはじめて獲得した哺乳類の祖。
ダーウィニウス・マシラエ、愛称「イーダ」。
嘘みたいな完璧さだが、レプリカでなく実物化石。奇跡的な美しさで、さすがに震えた。
おまけ。番組でガッキーが作ってた盆栽もありました。
てゆうかガッキーかわいいよね。
虫の写真、2015夏
つうわけで、Canon EOS kiss X4を使った虫撮影の成果。去年はCanon EOS 6D使ってたんだけど、ダウングレードした方がよく撮れるってむかつくなぁ。
レンズはCanon EF100mm F2.8L マクロ。
ハキリバチ。細かい分類はわかんない。
ジガバチは今日もグラマー。
ジガバチとベニシジミがお見合い。このあとは、何事もなくすれ違った。
オオモンツチバチ。花に夢中で撮りやすいヤツ。
クロアナバチ。動きが速くてやや寄り足りない。
絶対強者、シオヤアブ。
絶対強者2、アオメアブ。超寄れた。
知らないハチかと思って意気込んで撮ったが、触角と口がどうもハチと違う。ハチモドキハナアブの類と思われる。見事にだまされた。
ミドリギンバエ。ハチ待ち時の手遊びで撮っただけだが、意外にも複眼の美しさが目を惹く。
改めてベニシジミ。書き割りのような立ち姿。
ショリョウバッタ、若くして人生最大のピンチ!
旅先にて、愛車に見覚えのない鮮やかな色。ベニカミキリである。
高倍率で撮影したいとき、APS-Cとフルサイズのどちらを選ぶかという話
一眼カメラの話。
デジカメでは、センサー(撮像素子)サイズが小さいほど写真に被写体が大きく映るんだけど、これを高倍率と呼んでいいかは議論の的。こんなことが起こる原因は、大きなセンサーがより広い面積を捉えるせいだ。言葉で言っても分かりにくいので、フルサイズ(でかい)とAPS-Cサイズ(やや小さい)を例に、下に図解。
つまり、光学的にはAPS-Cサイズ(センサー小さい)の写真は、フルサイズ(センサー大きい)の写真をトリミング拡大したにすぎない。じゃあフルサイズで撮っといて後加工したらいいんかっつぅと、そうでもないってのが今日のお話。
トリミング拡大すると画素数が落ちるんですな、当然ながら。ただその落ち方が、想像するよりだいぶキツイ。我が家にある、APS-CサイズのCanon EOS kiss X4と、フルサイズのCanon EOS 6Dを例にとってみますと。
kiss X4(APS-Cサイズ)のスペックは
センサーサイズ: 22.3×14.9=332.3mm2
画素数: 5,184×3,456=17,915,904 (約1800万画素)
対する6D(フルサイズ)のスペックは
センサーサイズ: 35.8×23.9=855.6mm2
画素数: 5,472×3,648=19,961,856 (約2000万画素)
6D(フルサイズ)の方が元々の画素数は大きいんだけど、X4(APS-C)並みの画角になるようトリミングすると、残る画素数は、
19,961,856×(332.3/855.6)=7,752,653
と、たった800万弱になってしまう。X4(APS-C)の半分以下だ。細かい機能で6D(フルサイズ)が優れてるにしろこれだけ画素数が違うのは決定的なので、大きく撮りたい用途なら最初からX4(APS-C)を使った方がいい。6D(フルサイズ)の方が大幅に高価なんで悔しいが、これが現実。あと、X4の方がちっさくて軽いし。
あぁ、この違いを吹っ飛ばせるくらいの大砲レンズを買うなら、話は別ですよ。画質面ではそればベストだ、重いし何よりお高いけど。それができる人はそうして下さい。
漫画「H2」 ラストの解釈について
今更かつ唐突な話題ー
あだち充代表作のひとつ、「H2」について。
H2(エイチ・ツー) 全34巻完結(少年サンデーコミックス) [マーケットプレイス コミックセット]
- 作者: あだち充
- 出版社/メーカー: 小学館
- メディア: コミック
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この漫画、終盤は説明が極端に省かれているのでけっこう読解力を要求されます。ネットのブログレベルでは解釈について意見が割れてるので、決定版(俺なりの)を記しておこうと思い立った。ここまで解説するのはちょいと無粋ですがね。
33巻から始まるラストバトル・千川vs明和一戦は、一見ひかりを賭けて比呂&英雄が争っているような構図だが、これはミスディレクション。ひかりが英雄を選び、比呂が古賀ちゃんを選ぶことが、試合前に既に決定している。試合は比呂とひかりが気持ちに整理を付ける儀式のようなもので、しかも、整理がつくのは比呂が勝ったときだ。ただひとり英雄だけが、勝者がひかりを得ると思っている。
比呂とひかりの真意を伏せたまま試合が進行して、最終話で開示するのがどんでん返しになる、っつー構造だ。
これを信用してもらうためにまずは、比呂が古賀ちゃんを選ぶつもりである証拠として、以下2つのシーンを確認してください。
26巻
168p 比呂「I love you ちがうか?発音。」→古賀ちゃん「ううん。十分通じるよ。」
照れ隠しのおまけがついてるが、あだち作品らしからぬ強い言葉を発する比呂。十分コクってる。
31巻
166p 比呂「古賀。長生き ― しろよな。」
ひかり父の発言「長生きする嫁さんをもらえよ。」を受けて、比呂が古賀ちゃんに発する言葉。もはやプロポーズ。
あだちマンガの主人公が、ここまで言っといて翻意するのはナシですわ。あとはこのセンで、33巻以降の主な意味深描写を咀嚼してゆきましょう。この方針で全部まるっと余さず説明付きますから。
33巻
36-37p ひかり→比呂「がんばれ 負けるな。」
口先だけでいいからと応援をせがむ比呂、本当に口先でしか言えないひかり。ひかりが英雄を選ぶことを悟る比呂は、無理に言わせたことを謝る。ここは特に多義的で意味を読みがたいですが、あとで古賀ちゃんに同じ言葉を言ってもらうくだりと併せれば、こういうことかと。
75p 比呂→野田&英雄「おれはひかりのことが大好きなんだぜ。」
野田は口を滑らせたことを気にしてて、比呂がわざと負けることを心配してる。そんな野田を安心させるために比呂が言う。ただ、嘘ではない。ついでに英雄に聞かせて、真剣勝負を煽っている。額面通りに取ると他の読み方が全部変わってしまうが、これは読者へのミスリード。
98-108p 比呂VS英雄の第一打席
高速スライダーによる三振、振り逃げ。比呂の勝ち。
意外にもストレートオンリーの真っ向勝負を避けたことに、割に合わないからと言い訳する比呂だが、らしくない。
151-152p 英雄「わかってねぇな。まだ明和一の本当の打線の力が。」→比呂「わかってねえのは ― お前だよ」
英雄は野球の話をしてるが、答えた比呂は二人の勝負にひかりを賭けた英雄の行動について言っている。最終話の英雄の言葉「おれは・・・何もわかってなかったのか・・・」にかかる。
164-170p 第二打席
意表をついたスローボール×3、三振。比呂の勝ち。
時間稼ぎして、走りつかれた比呂を気遣う英雄。しかし、比呂は容赦なく裏をかき、徹底的に勝ちにこだわっていることを明示する。
187-188p 「いつもの国見じゃねえな。楽しんでねえんだよ、あの野球大好き少年が ― な。」明和一の監督独白
比呂はいつになく試合に勝とうとしている。なぜ勝ちたいのか・・・それが問題だ。
34巻(最終巻)
18-19p 古賀ちゃん→比呂「がんばれ。負けるな。」
疲れるわきゃないと言いつつ疲れてる比呂。いつもより疲れる理由は、ひかりの応援がなかったからだ。奇しくも同じ言葉で古賀ちゃんの応援を得たことで、比呂は持ち直す。
48-58p 第三打席
比呂は変化球中心の配球、英雄は敢えてストレートコースを空振りして真っ向勝負を要求するも、比呂はダンコ拒否。結果は長打コースの当たりだが比呂の超反射でアウトとなり、形式は比呂の勝ちだが、英雄は比呂を捉え始めている。
60p 雨宮おじさん独白「悪役に回ってるなァ、今日の比呂くんは。」
勝ちにこだわる比呂を、ひかりが欲しいからじゃないかのように評する。このへんから作者は真相を示唆し始める。
71p 野田「よかったな。もう一度英雄と勝負できるぜ。」→比呂「負けたら身を引くつもりだぜ、あいつ。」→野田「それがわかってるならいい・・・」
まだ気にしてる野田と、次も勝負に徹することを示唆する比呂。野田は、比呂が真っ向勝負でわざと負けることは望んでないが、勝負に徹する比呂をらしくないとも思っている。
74p 比呂「あまりおれを信用するなよ。」→野田「まかせるよ、おまえに―」
比呂は次も勝負に徹するかを決め兼ねている。野田は選択を比呂にゆだねる。
107p 明和一の監督「損得勘定で動けるような本能は、本物じゃねえやな。」
これは比呂の最後の球種選びに関わる伏線。
111p ひかり「やっぱり・・・想像できないなァ、負けたヒデちゃんは・・・」
表面的には英雄が勝つことを期待している言葉のようだが、後に開示されることには、ひかりは英雄が負けるのを待っている。英雄と比呂との関係を整理するために。どちらの意味にもとれる、あだち流言葉選びの冴え。
115p 比呂「なれよな、スチュワーデス。絶対―」
古賀ちゃんのスチュワーデスの夢は比呂の大リーグ行きとつながっている。比呂からこれに言及するのは、実質の告白。最終イニング前、勝負の決着がつく前に言うことに意味がある。
117-118p 野田「本当に好きなんだな?ひかりちゃんのこと。」→比呂「ああ。」→野田「がんばれ。」
比呂がひかりを好きなのはやっぱり事実。野田の声援は、比呂がひかりを勝ち取ることか、諦めることか、どっちに向けたのか・・・
142- 第四打席
2対0のリードで2アウト、ホームランを打たれてもいい場面での第4ラウンド、ついにストレートで攻める比呂、捉えた英雄の打球は実質ホームランだが、不自然な風がファールにする。本来の野球の実力勝負はここで決着している。つまり、英雄の勝ち。ホームランボールを押し出した風は、誰かが意図したかのよう。ときおり言及された、野球の神様、あるいは運命ってやつの仕業なのかも。
比呂「ちくしょう・・・どうしても俺に勝てって・・・か。」
打ちとらないとひかりとの関係が清算できない比呂には、打たれたことを喜ぶ気持ちもあった。その誰かさんに毒づく。
最後の一球、比呂の選択肢は以下の3つ。
①ストレート → 真っ向勝負を継続、今度はいよいよホームラン。
②スライダー → 真っ向勝負から逃げる、打ち取れるかもしれない。
③他の変化球 → 第三打席で見切り済み、どうせホームラン。
勝たねばならないこの場面、比呂はスライダーを選ぶ。あとで野田が言う「スライダーのサインだったぞ?」はロジンバッグを三回投げる仕草を指してると思われる。
スライダーを確かに選んだはずだが、実際に投げたのはストレート。損得勘定を越えた本能ってやつの仕業か。
そして、打たれるはずのストレートだが、英雄のバットは空を切る。
比呂「あんな球・・・二度と投げられねえよ。」→野田「投げさせられたんだよ。だれかに・・・な。」
比呂の勝利を要求する誰かさん(=野球の神様的なもの)が実力以上の球を投げさせたのだろう。地力で勝るはずの英雄は敗れ、比呂の狙いは完遂された。
175-176p これが種明かしにあたる重要なページ。
ひかり「いつも鍵を閉めてるものね。ヒデちゃんのその部分にわたしの居場所があるんだって。-だから、なるべくドアは開けておくようにって。」→英雄「比呂がそういったのか?」
次にひかりの「ううん」が来るが、これは英雄の問いには答えていない。上のひかりの言葉が伝聞形なのは、やはりそれを比呂が言ったからだ。
英雄が負けた時にこそ英雄にはひかりが必要。英雄とひかりの関係が確立されるには、英雄が負ける必要がある。また負かす役を比呂が演じることで、比呂とひかりの関係は終わることができる。だから、比呂は英雄に勝たねばならなかった。
言ったタイミングは、試合前日の「がんばれ、負けるな」の後でしょうな。こんな会話を試合前日にしてたってことは、比呂とひかりが二人の関係をきっちり終わらせることに合意してたってこと。
ひかり「比呂はヒデちゃんを三振に奪っただけよ。」
元々ひかりの行方は野球の勝敗に関わって無かった、どっちが勝とうがひかりは英雄を選んだってことを説明する言葉。この言葉の前に英雄は、比呂が勝つことでひかりを譲ったのかと邪推していて、ひかりの「ううん」はそれを否定している。なお、三振にできなければ比呂とひかりの関係が清算できなかったわけで、少し嘘。
179-180p すべてを理解し、なるべき形に収まるふたり。
英雄「おれは・・・何もわかってなかったのか・・・」
これは前述のとおり、比呂の「わかってねえのは ― お前だよ」を受けてのこと。
185p 比呂「ちょいと大リーグまで - かな。」→古賀ちゃん「じゃ、スチュワーデスはわたしだ。」
こちらの二人も、然るべくなっている様子。比呂と古賀ちゃんが同じ夢を追うことを確認しあっている。
めでたしめでたしとっぴんぱらりのぷう。
風立ちぬ雑感
こないだTV初放送された風立ちぬでひとこと。高原の休暇で、ヨメとにわか雨に降られるシーン、これ気象的にすごく正確なのだ。
・夏の高地は急激な上昇気流が起きやすく、積乱雲を形成することが多い。
・積乱雲の下は強い雨と風。カミナリを伴う。
・積乱雲は局所的なので、雲の下から抜ければ急に晴れる。
・積乱雲の周辺など、太陽を背に雨を見る時は、虹を見るチャンス。
風は作品に関わるモチーフなので総じて描写が丁寧だが、虹を見るまでの経緯にこれほど整合性を持たせているとは。
このじいさんがため込んでる知識は膨大だ。知識に裏打ちされた描写は、隅々まで意図を秘めている。きっと現実と違う事を描くときは、演出効果の計算があって自覚的にそうするのだろう。
このじいさんの描く世界に、テキトーで済まされたものはない。
読書録18:「太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで」 イアン・トール
アメリカ人の書いた、太平洋戦争の序盤戦の戦史。太平洋戦争についてテレビで語られることって、「怖いものだった」「二度とやってはいけない」の切り口ばっかり。それはそれで凄く大事なんだけど、実際のところがどんなだったのかは、積極的に知ろうとしないと良くわからない。日本が勝っていた序盤は特にそう。著者がアメリカ人なのも、中立の視点を探しやすくてイイ。
上巻は勝ってた時代の話。何度も言うが、最初は勝ってたのだ。マジで。勝てた要因は、平和に暮らしてたアメリカとずっと戦争してた日本の組織効率の違いであり、航空機爆撃の有効性を見出した山本五十六の戦略眼であり、ゼロ戦の驚異的な航続距離と戦闘能力であり、、、などなど。アメリカ側から見れば、それは確かに脅威と呼ぶべきものだった模様。
下巻は、勝ってた日本軍がミッドウェイ海戦でボロ負けするまでの話。ミッドウェイは負けるべくして負けたとよく言うが。この本読むと、案外日本の勝ち目もあったみたい。引き分けくらいにはできたというか。いろんな局面の勝率4割くらいのカケで、片っ端からハズレを引いたって感じ。アメリカ側の準備がイチイチ日本を上回ってはいたけど。よくもまぁ全部負けを引いたもんだ。勝負事は微妙なことで大きな差がついてしまうものであるなぁ。
なおこの本の範囲を越えるが、ミッドウェイ以降は国力の地力が出て、アメリカンな桁違いの物量の前に手も足も出なかったそうな。山本五十六が当初示唆した、「勝てるのは最初だけだから勝ってる内にとっとと講和交渉する」戦略は完璧に的を射ていたわけですな。勝ってる時に引き際を判断する難しさよ。
読書録17: 「勝つために戦え!監督編」「勝つために戦え!監督ゼッキョー編」 押井守
押井守監督が勝敗論を語るシリーズ。1作目はサッカーとかを例にしてたんで興味の外でしたが、映画監督を例にした2作目「監督編」で俄然興味深い話をしてくれました。3作目「ゼッキョー編」は勝敗論はもう置いといて、押井がいろんな映画監督に好き放題言う本。論点ぼやけてるけど、押井が映画を語る語り口に納得できたらとりあえず楽しい。
押井の勝敗論のキモは、自分にとっての勝利条件を明確化すること。どんな職業であれ最終目標は「本人が幸せになる事」だ。まずこれが目標だと定められている人がどのくらいいるだろうか?このシンプルな答えにたどり着くのは案外と難しい。また、どうすれば自分が幸せになれるのか?その答えは個々人で千差万別だが、その条件を各々自覚して、正しくそれを目指さなければ、いくら努力しようが幸せにはなれない。目前の努力を嫌って職を失う人も、自分に精進を課し過ぎて自滅する人も、ゴールを見誤っている。以前から漠然と思ってはいたけど、押井師匠が上手く説明してくれました。
例えば、巨匠キューブリックは映画史に残る名作を多数こしらえたが、商業性に問題があって晩年は全然映画を撮らせてもらえなかった。コッポラも同じく巨匠の呼び声高いが、借金まみれだった。どうやら、巨匠になること=幸せになる事ではないらしい。偉大だろうが本人が幸せになんなきゃ仕方ない。
映画はあくまで商業活動であって、お金出す人にしたら利益を生まない映画に存在価値はないが、監督にしたら撮りたいものを撮れないなら監督やる価値がない。大衆迎合に徹しても、そんな底の浅い仕事は長続きしない。個人的に撮りたい事が作家性と認識してもらえれば、普通は商業性を削ぐようなことでも固定ファン獲得に繋がって、逆に安定的に監督業を続けられるかも。さりとて、過去作に依ったファンが増える程に期待されるものが固定化されて新しいことができなくなって、過去作と違うスタイルの”今”撮りたい映画は撮れなくなる。なんともめんどくせぇが、全ての映画監督に求められるこの、商業性と芸術性の両立という問題、この勝利条件を押井流にまとめるならば、
「やりたいことしつつも次回作をつくる権利を留保し続けること」
プロデューサーから大衆迎合的な要求をされつつ、予算的限界もありつつ、自分の撮りたいものを撮りつつ、採算の取れる映画にする。映画に対して映画監督という立場のできること、できないこと、できなそうで、やりようでなんとかなること。仕事のできる人とできない人の区別に還元すればどんな職業にも当てはまる教訓的内容で、なかなか耳が痛いです。
ただこの論でいうと、監督業さえ続けられれば傑作と評される作品を作ることに全く興味がないようで、さらに言えば採算さえ取れれば駄作と呼ばれようが何の痛痒も感じないらしく、ファンでいたい自分の思いとはかけ離れた所へ行ってしまっているなぁと思わなくもない。「立食師」や「アサルトガールズ」程度で遊んでるのは正直やめてほしい。。。駄作感が続くとファンが減って商売できんくなるので、定期的にガチ作品も作ると期待するしかないですがねぇ。
それはそうと、作り手がどんな思いで映画を撮ってるかが分かって視野が広がるので、映画好きやってるなら読んでおくべきかと。例えば「エイリアン」では、宇宙船の床をグレーチングにしたのが凄かったんだそうな。確かにぼんやり覚えてるし、それが空間の印象づくりの決め手だったってのは言われてみりゃわかるけど、言われんとその工夫は意識するのむりっす。