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本と、その他諸々のこと。理系的なこと。

読書録18:「太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで」 イアン・トール

 

太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで 上

太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで 上

 
 
太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで 下

太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで 下

 

アメリカ人の書いた、太平洋戦争の序盤戦の戦史。太平洋戦争についてテレビで語られることって、「怖いものだった」「二度とやってはいけない」の切り口ばっかり。それはそれで凄く大事なんだけど、実際のところがどんなだったのかは、積極的に知ろうとしないと良くわからない。日本が勝っていた序盤は特にそう。著者がアメリカ人なのも、中立の視点を探しやすくてイイ。

上巻は勝ってた時代の話。何度も言うが、最初は勝ってたのだ。マジで。勝てた要因は、平和に暮らしてたアメリカとずっと戦争してた日本の組織効率の違いであり、航空機爆撃の有効性を見出した山本五十六の戦略眼であり、ゼロ戦の驚異的な航続距離と戦闘能力であり、、、などなど。アメリカ側から見れば、それは確かに脅威と呼ぶべきものだった模様。

下巻は、勝ってた日本軍がミッドウェイ海戦でボロ負けするまでの話。ミッドウェイは負けるべくして負けたとよく言うが。この本読むと、案外日本の勝ち目もあったみたい。引き分けくらいにはできたというか。いろんな局面の勝率4割くらいのカケで、片っ端からハズレを引いたって感じ。アメリカ側の準備がイチイチ日本を上回ってはいたけど。よくもまぁ全部負けを引いたもんだ。勝負事は微妙なことで大きな差がついてしまうものであるなぁ。

なおこの本の範囲を越えるが、ミッドウェイ以降は国力の地力が出て、アメリカンな桁違いの物量の前に手も足も出なかったそうな。山本五十六が当初示唆した、「勝てるのは最初だけだから勝ってる内にとっとと講和交渉する」戦略は完璧に的を射ていたわけですな。勝ってる時に引き際を判断する難しさよ。

読書録17: 「勝つために戦え!監督編」「勝つために戦え!監督ゼッキョー編」 押井守

 

勝つために戦え!〈監督篇〉

勝つために戦え!〈監督篇〉

 
勝つために戦え!〈監督ゼッキョー篇〉

勝つために戦え!〈監督ゼッキョー篇〉

 

 押井守監督が勝敗論を語るシリーズ。1作目はサッカーとかを例にしてたんで興味の外でしたが、映画監督を例にした2作目「監督編」で俄然興味深い話をしてくれました。3作目「ゼッキョー編」は勝敗論はもう置いといて、押井がいろんな映画監督に好き放題言う本。論点ぼやけてるけど、押井が映画を語る語り口に納得できたらとりあえず楽しい。

押井の勝敗論のキモは、自分にとっての勝利条件を明確化すること。どんな職業であれ最終目標は「本人が幸せになる事」だ。まずこれが目標だと定められている人がどのくらいいるだろうか?このシンプルな答えにたどり着くのは案外と難しい。また、どうすれば自分が幸せになれるのか?その答えは個々人で千差万別だが、その条件を各々自覚して、正しくそれを目指さなければ、いくら努力しようが幸せにはなれない。目前の努力を嫌って職を失う人も、自分に精進を課し過ぎて自滅する人も、ゴールを見誤っている。以前から漠然と思ってはいたけど、押井師匠が上手く説明してくれました。

例えば、巨匠キューブリックは映画史に残る名作を多数こしらえたが、商業性に問題があって晩年は全然映画を撮らせてもらえなかった。コッポラも同じく巨匠の呼び声高いが、借金まみれだった。どうやら、巨匠になること=幸せになる事ではないらしい。偉大だろうが本人が幸せになんなきゃ仕方ない。
映画はあくまで商業活動であって、お金出す人にしたら利益を生まない映画に存在価値はないが、監督にしたら撮りたいものを撮れないなら監督やる価値がない。大衆迎合に徹しても、そんな底の浅い仕事は長続きしない。個人的に撮りたい事が作家性と認識してもらえれば、普通は商業性を削ぐようなことでも固定ファン獲得に繋がって、逆に安定的に監督業を続けられるかも。さりとて、過去作に依ったファンが増える程に期待されるものが固定化されて新しいことができなくなって、過去作と違うスタイルの”今”撮りたい映画は撮れなくなる。なんともめんどくせぇが、全ての映画監督に求められるこの、商業性と芸術性の両立という問題、この勝利条件を押井流にまとめるならば、

「やりたいことしつつも次回作をつくる権利を留保し続けること」

プロデューサーから大衆迎合的な要求をされつつ、予算的限界もありつつ、自分の撮りたいものを撮りつつ、採算の取れる映画にする。映画に対して映画監督という立場のできること、できないこと、できなそうで、やりようでなんとかなること。仕事のできる人とできない人の区別に還元すればどんな職業にも当てはまる教訓的内容で、なかなか耳が痛いです。

ただこの論でいうと、監督業さえ続けられれば傑作と評される作品を作ることに全く興味がないようで、さらに言えば採算さえ取れれば駄作と呼ばれようが何の痛痒も感じないらしく、ファンでいたい自分の思いとはかけ離れた所へ行ってしまっているなぁと思わなくもない。「立食師」や「アサルトガールズ」程度で遊んでるのは正直やめてほしい。。。駄作感が続くとファンが減って商売できんくなるので、定期的にガチ作品も作ると期待するしかないですがねぇ。

それはそうと、作り手がどんな思いで映画を撮ってるかが分かって視野が広がるので、映画好きやってるなら読んでおくべきかと。例えば「エイリアン」では、宇宙船の床をグレーチングにしたのが凄かったんだそうな。確かにぼんやり覚えてるし、それが空間の印象づくりの決め手だったってのは言われてみりゃわかるけど、言われんとその工夫は意識するのむりっす。

読書録16: 「自己組織化と進化の論理」 スチュワート・カウフマン

自己組織化と進化の論理―宇宙を貫く複雑系の法則 (ちくま学芸文庫)

自己組織化と進化の論理―宇宙を貫く複雑系の法則 (ちくま学芸文庫)

 

 ランダムな事象が大量に集まると、総体のふるまいに一種の秩序が現れる・・・「複雑系」の概説本。複雑系はカオスやフラクタルにも通じるけど、そういうのよりもっと現実的な、じっさい目にするできごとを説明するための理論だ。この本でのターゲットは生命発生と進化、これを数学脳で再解釈する…おぉそんな事ができるのか。既存の理解の仕方を、ガラッと新しい別の枠組みに置き換える試みで、こういうのが上手くいくとスカーッとする。これぞ理解する喜び!

序盤の生物発生の話が、特にキレキレで大好き。
生物細胞の中で起こってる化学反応は超複雑。分裂する時には中の分子が全部倍に増えるが、この経緯が理解不能に複雑で、ある分子Aはある化学反応の触媒になって、別のある分子Bが生成されて、その分子Bが触媒になって分子Cが生成されて・・・の繰り返しで全部の分子がきっちり複製される。目的意識のない偶然の産物で、そんなんできる?いくら時間の淘汰を経たからったって、そんなのむりむりむりむりかたつむりよ!
で、そこで複雑系の出番。この細胞の触媒サイクルをもう一度ゼロから再現しようなんてのは確かにかたつむり。ここは一度頭を切り替えて。
何の意図もなく適当に拾った分子Aにも、何か触媒できる反応のひとつくらいあるだろう(たぶん)。それでできた分子Bにもまた、生成を助けられる分子Cがあるだろう。こんなことがずっと続いてたら、最初の分子Aを生成できる分子Zもいつか登場するんじゃね?という話。ここには最終的に生物を作ろうなんて大それた目的はいらなくて、ランダムな触媒作用が累積するだけでいい。とにかく分子の種類さえ多ければ。分子がいっぱいいっぱい目も眩むほどいっぱいあれば、いつかは触媒作用が閉じたサイクルになる。ここでネックになる分子の種類ってのも、数種類のアミノ酸がランダムに重合したポリマーなら、順列組み合わせで種類は無限にできるというマジック。どんなサイクルになるかは、やってみないと分からないけど、何某かのサイクルはたぶんできるし、結果出来上がったのが偶々、今ある生物細胞だったってこと。この理解からいくと、もう一度生命のスープを作ったら、きっと今とは違うサイクルができて、今とは違うシステムで動く生物が進化したかもしれないって訳ですね。

こんな風に、ランダムが山と積もったら秩序が浮き上がってくるのが、この複雑系の考え方。イカにも色んな現象に当て嵌めれそう。この本の中でも色々やってるけど、経済学とかインターネットとか、色んな応用されているよう。

ただ、今ある物の解釈の枠組みを変えることはできても、新たに何かを予測するって形で機能してないようで、そこはまだまだ複雑系の未熟なところ。伸び盛りって感じで、むしろアツイっすね。

読書録15: 「赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由」 ニコラス・ハンフリー

赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由

赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由

 

 感覚ってナンなのか、を解き明かそうとする本。

自分が感じていることは、周りの人と全然違うのかも。なんて不安を持ってる人、実は結構いるんじゃなかろうか。例えば、僕が赤いと感じているモノを見て、他の人は「僕にとっての青い感じ」を感じているとしたら。「感じ」が違ってても、「赤」と同じ名前で呼ぶので、コミニュケーションは取れる。でも「感じ」の比較はできっこない。こりゃ永遠の謎だ。こんな悩みに囚われてると、世界を共有できない疎外感とか感じてしまって、実に生きにくい。
この本も、この疑問に結論を出すのが難しいのは認めてる。それでも確実に言えることを積み重ねていけば、余計な霧は晴れてくる。すると、どうせわかんないけど、そんなもんだよ、なんて開き直れるようになった。モヤモヤしてる人は読んでみるのがオススメだ。
ただし、絵本のような装丁に騙されて軽い気持ちで読み始めると、開始2~3ページで振り落とされるんで、そこんとこは注意だぜ。

 

例えば赤いものを見るとき。厳密には2つのことが起こっている。
・赤い光を検知すること
・アタマの中で「赤い感じ」を感じること
この2つの区別が飲み込めない?読み通すにはココ大事なんで頑張りましょう。赤を「あの感じ」に感じるのは、実は当然ではないのだよ。
赤の光とは、波長700nm前後の電磁波。電磁波の波長と、色彩の感覚ってのは人間の脳が勝手に関連付けたもの。電磁波を検知することと、頭の中にあの色の感じを想起させることは、別個のことなハズだ。
そんなの机上の空論、かと思いきや。はたして、脳の機能としても完全に別々に処理されてるんだそうな。その証拠に、後者の「感じ」だけを失う「盲視」という脳障害があるんだと。この障害の人は、何も見えない、何も感じないと言いながらも、視覚情報は認識できていて、ちゃっかり見えてるように行動できるという。そんなの哲学的ゾンビじゃーん!!

著者さんはこの盲視の研究で名を成した人なので、このくだりの筆致が実にアツイ。脳と意識の話はまだまだ解らないことだらけですが、だからこそのフロンティアな熱気が伝わります。

 

認識と感覚が別モノならば。認識できれば十分だろうに、感覚は何のために進化してきたんだ・・・ってところに話は進むんだけど。この4章、感覚の進化過程の考察については、個人的にちょっと違う気がするのでメモしておく。
まず本書での結論をまとめると。
1.原始、生物は外部からの刺激に体の部分部分で場当たり的反応を返すだけだった。
2.外部刺激と反応を統括する司令部ができた。この時点では脊椎反射のようなもの。
3.司令部のために刺激→反応のループをモニターするシステムが構築される。
4.司令部が意識を成し、意識が外部刺激に対する反応を統括する。
5.仕事を無くした刺激→反応機構が変質し、刺激→感覚機構になった。
ここでは、意識が体の反応を完全に統括しているイメージ。でも、近頃の学者さんの見解では、どうやら意識は行動をほとんど管理してないらしい(デヴィッド・イーグルマン著「意識は傍観者である」あたりを参照)。意識が反応を統括してないとすれば、話は簡単。3で終わりだ。刺激→反応の機構はまだまだ現役で、意識はその仕事の一部をモニターしてるだけ。この本の中では、「感覚が物理的な機構にもとづく反応だ」ってことが言いたいので5を結論にしたいんだけど、4が成立しないなら5は起こらない。そうじゃなくて、意識が刺激をモニターした結果が、つまり感覚のことなんじゃないかな?

読書録14: 「鳥類学者 無謀にも恐竜を語る」 川上和人

鳥類学者 無謀にも恐竜を語る (生物ミステリー)

鳥類学者 無謀にも恐竜を語る (生物ミステリー)

小学生の男子諸君は、恐竜が好きなのだ。だから、男はみんな、昔は恐竜が好きだったのだ。どいつもこいつも大人になって、何となく忘れちゃってるけどね。斯く言う私も恐竜道から離れてかれこれ20年。私なんぞがふんぞり返って怠けてる間にも恐竜界では勤勉な恐竜マスターたちが勤勉な研究を続けてらっしゃって、恐竜常識が一新されるほどの進展があったらしい。今やヴェロキラプトルに羽が生えるし、ブロントサウルスはアパトサウルスに統一されるし、鳥が恐竜の一種になるし。・・・そうなのです!最近ついに、鳥が恐竜から進化したってことが確定的になっていたのです。そんなもんだから、こんなタイトルの本が出る始末。鳥は恐竜の一部、いやもはや鳥は恐竜も同然であって、鳥類学者が恐竜を語るのも当然のことでありますとかナントカ言いながら、鳥の性質を元に恐竜の生態を考察しておられます。
例えば、恐竜は歩くときにハトのように首を振ったか、とか。それを考える理由は、恐竜が首を振ってたと想像したら面白いから。いいですね。実にいい。でも本当に、振ってた可能性あるのです。想像したら超面白いよね、ピコピコ首振るティラノサウルとか。むしろ振ってて欲しいよね。
この本、読み終わるころにはちょっと鳥に詳しくなります(恐竜じゃなくて)。先の恐竜の首振り考察を例にとれば、当然ながら、まずなぜハトが頭を振るかの話が始まるわけです。ハトは目を動かす筋肉があまり発達してなくて、人間のように目玉をくるくる動かせないので、モノを集中して見るには目線の替わりに頭を固定するのです。で、景色に対して頭を固定しながら歩いてると、ピコピコとあんなことになると。ハイ今ちょっと鳥に詳しくなったー。
このおじさん、「自分の話には中身が無いですよ」な体の語り口だけど、実はウンチクと切れる考察の宝庫。かしこい内容を利口ぶるでもなくユーモアでくるんで皆に楽しく聴かせるって、あれ、このおじさん実は、理想的なインテリ?!
あっなんかバードウォッチング始めたくなってきた。できるなら恐竜ウォッチングがいいんだけどな。恐竜いないし、鳥は恐竜も同然だしな!

読書録13: 「経済政策を売り歩く人々」 ポール・クルーグマン

経済政策を売り歩く人々―エコノミストのセンスとナンセンス (ちくま学芸文庫)

経済政策を売り歩く人々―エコノミストのセンスとナンセンス (ちくま学芸文庫)

戦後のアメリカの経済政策と経済学の移り変わりを例に、代表的な経済学説を紹介する本。前回ご紹介した「クルーグマン教授の経済入門」よりは、だいぶ突っ込んだ内容。
学説それぞれの詳細はさておき。どうやら要するには、景気変動の原因についてまともな学者の中でコンセンサスが取れてる理論は未だにないらしい。やはりというか、意外というか。そんなん、経済学が説くべき一番最初の課題だろ。まだ迷ってんの?!が素直な感想。
そんなザマになる理由は、経済学は実験ができないからだ。アイデアの妥当性について定量的な比較ができないのだ。物理屋のワタシからしたらもどかしいねぇ。「現象Aが起こると景気が良くなる」理論があって、実際に現象Aに景気を良くする効果があるとして、どのくらい効くか、が分からないわけ。Aの100倍景気を左右する現象Bがあるかもしれない。A、Bとは別に効果のある現象CもDもあるかもしれない。そんなわけで、定量評価できない経済学には正反対の結論を導く理論がたくさんあって、しかもどれも理屈は通ってみえる、なんてことになると。
そんな経済学を輪をかけてメンドくするのが、右だ左だのイデオロギー。みんな欲しい結論が来るように理論を構築するから、経済学は純粋な学問でいるのが難しんだナ。
それでもいろんな理論が時代に淘汰されてきたし、その中で生き残ってきた理論には一面の真理があるのでしょう。まわりまわって結局、ケインズが一番あてになるってトコみたいですね。それともクルーグマン先生がケインズ好きなだけ??
さらに言うと、プロでもそんな世界なんだから、政治家の語る経済学はとりわけむちゃくちゃなんだと。痛烈なタイトルにもあるように。有権者の皆様に聞こえのいいことを言うから。いろんな利権もあるし。定量性の問題どころじゃなくて、そもそも破綻してることが多いんだとか。有権者やるなら、そんなのに引っかからないくらいには、経済を理解しときたいもんですねぇ。

読書録12: 「クルーグマン教授の経済入門」 ポール・クルーグマン

クルーグマン教授の経済入門 (ちくま学芸文庫)

クルーグマン教授の経済入門 (ちくま学芸文庫)

宣伝文句どおり、経済の根っこのところをわかる本。
選挙になるたび、候補者はみんな聞こえのいいことを言う。どれもいいように聞こえるけど、人によって全然違うことを言っている。こちらは経済の素人といえど有権者だし、誰が正しそうかを見抜かないといけない。と思ってとりあえず経済の勉強しようするが、巷にこうも経済解説本が溢れてては、どこから読めばいいのかわからない。そこでこの本ですよ。経済の「根っこのところ」、拠って立つべき根っこの考え方が、スッキリして見えてきます。
例えばインフレについて。この本の執筆時点で、クルーグマン先生は、日本の景気回復に必要な対策はインフレだと指摘してます。以下、インフレが好ましいざっくりした理由。
・デフレ→手元にあるお金を、持ち続けるだけで価値が上がる→お金使わない→不況
・インフレ→手元にあるお金は、持ち続けるだけで価値が下がる→投資に使う→好況
銀行に預けると利子で増えるけど、利子率はインフレ率ちょい下くらいに設定されるものなので、やっぱり投資した方が有利。一方デフレだと、利子率ゼロでもお金を使わないだけで実質利益になっちゃうので、不況になる。
「インフレ→好況」のサイクルを動かすには、実態としてのインフレでなくても、インフレになると多数が予測している状態があればいい。で、安倍君がインフレ狙うと宣言して、それらしき手を2~3打っただけで、まだ成果が出るには早いはずなのに、景気回復傾向になった。すげーね。ちなみに、日銀はちゃんと前からインフレ目指してたけど、声が小さかった。必要なのはみんなの期待感なんだから、宣伝が大事。
と、言う程度の話が、この本を読めば素人ながらできるようになります。安倍のミクスがアタリだってわかってて選挙に臨めるワケ。そういうの大事でしょ?