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本と、その他諸々のこと。理系的なこと。

読書録17: 「勝つために戦え!監督編」「勝つために戦え!監督ゼッキョー編」 押井守

 

勝つために戦え!〈監督篇〉

勝つために戦え!〈監督篇〉

 
勝つために戦え!〈監督ゼッキョー篇〉

勝つために戦え!〈監督ゼッキョー篇〉

 

 押井守監督が勝敗論を語るシリーズ。1作目はサッカーとかを例にしてたんで興味の外でしたが、映画監督を例にした2作目「監督編」で俄然興味深い話をしてくれました。3作目「ゼッキョー編」は勝敗論はもう置いといて、押井がいろんな映画監督に好き放題言う本。論点ぼやけてるけど、押井が映画を語る語り口に納得できたらとりあえず楽しい。

押井の勝敗論のキモは、自分にとっての勝利条件を明確化すること。どんな職業であれ最終目標は「本人が幸せになる事」だ。まずこれが目標だと定められている人がどのくらいいるだろうか?このシンプルな答えにたどり着くのは案外と難しい。また、どうすれば自分が幸せになれるのか?その答えは個々人で千差万別だが、その条件を各々自覚して、正しくそれを目指さなければ、いくら努力しようが幸せにはなれない。目前の努力を嫌って職を失う人も、自分に精進を課し過ぎて自滅する人も、ゴールを見誤っている。以前から漠然と思ってはいたけど、押井師匠が上手く説明してくれました。

例えば、巨匠キューブリックは映画史に残る名作を多数こしらえたが、商業性に問題があって晩年は全然映画を撮らせてもらえなかった。コッポラも同じく巨匠の呼び声高いが、借金まみれだった。どうやら、巨匠になること=幸せになる事ではないらしい。偉大だろうが本人が幸せになんなきゃ仕方ない。
映画はあくまで商業活動であって、お金出す人にしたら利益を生まない映画に存在価値はないが、監督にしたら撮りたいものを撮れないなら監督やる価値がない。大衆迎合に徹しても、そんな底の浅い仕事は長続きしない。個人的に撮りたい事が作家性と認識してもらえれば、普通は商業性を削ぐようなことでも固定ファン獲得に繋がって、逆に安定的に監督業を続けられるかも。さりとて、過去作に依ったファンが増える程に期待されるものが固定化されて新しいことができなくなって、過去作と違うスタイルの”今”撮りたい映画は撮れなくなる。なんともめんどくせぇが、全ての映画監督に求められるこの、商業性と芸術性の両立という問題、この勝利条件を押井流にまとめるならば、

「やりたいことしつつも次回作をつくる権利を留保し続けること」

プロデューサーから大衆迎合的な要求をされつつ、予算的限界もありつつ、自分の撮りたいものを撮りつつ、採算の取れる映画にする。映画に対して映画監督という立場のできること、できないこと、できなそうで、やりようでなんとかなること。仕事のできる人とできない人の区別に還元すればどんな職業にも当てはまる教訓的内容で、なかなか耳が痛いです。

ただこの論でいうと、監督業さえ続けられれば傑作と評される作品を作ることに全く興味がないようで、さらに言えば採算さえ取れれば駄作と呼ばれようが何の痛痒も感じないらしく、ファンでいたい自分の思いとはかけ離れた所へ行ってしまっているなぁと思わなくもない。「立食師」や「アサルトガールズ」程度で遊んでるのは正直やめてほしい。。。駄作感が続くとファンが減って商売できんくなるので、定期的にガチ作品も作ると期待するしかないですがねぇ。

それはそうと、作り手がどんな思いで映画を撮ってるかが分かって視野が広がるので、映画好きやってるなら読んでおくべきかと。例えば「エイリアン」では、宇宙船の床をグレーチングにしたのが凄かったんだそうな。確かにぼんやり覚えてるし、それが空間の印象づくりの決め手だったってのは言われてみりゃわかるけど、言われんとその工夫は意識するのむりっす。