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読書録7: 「意識は傍観者である」 デイヴィッド・イーグルマン

意識は傍観者である: 脳の知られざる営み (ハヤカワ・ポピュラーサイエンス)

意識は傍観者である: 脳の知られざる営み (ハヤカワ・ポピュラーサイエンス)

いかに意識が人間の行動を支配していないか、という本(!)。自由意志は存在しないのか?あんまり聞きたくない話が満載。
例えば、心臓の鼓動や、発汗の制御、瞳孔の開閉ナドナド。身体のメンテや制御に関わるルーチンは意識の支配下にない。それはまぁわかる。じゃあ、息の仕方、まばたきの仕方、歩き方、なんかはどうだ。支配してる?やろうと思えば制御できなくはないが、意識が何もしなくても、勝手にやってる。これは、ちょっとしたことじゃあ、ない。意識なく制御できる動作があるってことだ。この調子で、「意識が支配している自分の行動」について掘り下げてったら、意識の支配下あるもんなんてほとんど残らなかった、というわけ。おぉ、私にまつろう民はおらぬのか!
しかも、意識は脳ミソという器官の産物なわけで、ハードとしての脳ミソの構造は、ソフトとしての意識を、驚くほど左右するらしい。僕はスティーブン・ピンカーの一連の著作、「言語を生みだす本能」「思考する言語」あたりを先に読んでたので、ハードの影響の強さはある程度は受け入れていたが。この本はさらに、ソフトの側に左右できる選択肢はもうほとんど残されていない、と言う。印象として信じがたいし、正直信じたくもない種類の話だが、その内容にはあまりに説得力がある。たぶん、本当だ。
このあたりを納得させられちまってから始まる、6章の犯罪者の有責性に関する議論、これがまたヒドイ。まず、意識は脳ミソのつくりに左右される。そして、数ある脳ミソのなかには、攻撃性の強い脳ミソ、物を盗みたくなる脳ミソというのがある。でははたして、不本意にも犯罪を犯す脳ミソを持ち合わせてしまった人間に、責任を問えるのか。思いもよらない角度からの指摘だ。全部生まれ持った脳ミソの構造の結果でしかないんだから。犯罪を犯す性格でいることが、盲目や聾唖と同じレベルの問題になってしまう。自由意志が実はほとんど自由を持たないならば、「責任」や「罪」の概念がそもそも成立しなくなるわけだ。
言ってることは確かにそのとおりかもしれないが、法制として全く人の責任を問わないシステムを採用すべきかというと、正直、ラディカル過ぎてまだ完全には同意できないな。「罪」に対する「罰」を示すことで、犯罪を抑制する力はやはりあると思う。
この6章以外は、断片的にはピンカーその他の著作と重複してるけど、直近までの脳科学の成果を要領よく要点をまとめて、つまり~の結論をバッチリ提示してくれる。意識のなんたるかに興味があるなら、これ1冊でケリがつくぞ。